金剛院とは
有應山 野宮寺 金剛院
金剛院は、聖宝理源大師開基、
宇多天皇が勅願なされた
鎮護国家、真言加持の道場であり
伊丹七口の氏寺をつとめてきました。
有應山野宮寺金剛院
金剛院は、聖宝理源大師開基、
宇多天皇が勅願なされた
鎮護国家、真言加持の道場であり
伊丹七口の氏寺をつとめてきました。
金剛院の歴史
創建にまつわる物語
延喜4年(904年)、宇多天皇の勅願により、醍醐天皇のお力添えを得て聖宝理源大師により建立された寺院と伝えられています。
猪名野を過ぎゆく一つの奇き光を見て、その発光する所を訪ね求めるとそこには金銅四寸の薬師如来の像がありました。
これにより宇多天皇に奏請し奉り、その地に有應山善楽寺と称し、金銅四寸の薬師如来を體内仏とする薬師如来を本尊とし、七堂伽藍と七院(七坊)の寺院を草創しました。
金剛院は、山主の常居所として寺院を統括する権限を与えられた塔頭坊でありました。
源為朝の再興
當寺は開創以来凡そ250年間は鎮護国家の道場、西方の一大精舎として庶民の信仰を集めていましたが、この時代は天下麻の如く乱れ京洛は戦乱の地でありました。その影響を当山も多大な影響を受けました。
久安6年(1150年)、地方に暫住していた鎮西八郎源為朝が當寺に滞在し、ある夜に牛頭天王の悪夢により、牛頭天王からお告げを受け当山を再興するに至りました。
その折、善楽寺を改めて野々宮寺と称し、新しく一宮社を造営しました。
この頃の本地垂迹説に基づき、本地を本尊薬師如来とし、宮社には薬師如来の垂迹である牛頭天王を主神として祭祀するに至りました。
豊臣秀頼の再興
1579年荒木村重の反乱の際、當寺境内は荒木勢の防御場所となり、兵火により伽藍僧坊、社殿楼閣は悉く灰燼に帰しました。豊臣秀頼は父秀吉の遺志を継ぎ當寺社の再興を念願し、千僧村稲名野山願成就寺の塔頭であった長照法印と共に當寺の再興に務め、文禄3年再興の令を下され、塔中院坊の内、本坊である野々宮寺金剛院のみの名坊を残し、寺社の再興に至りました。
近衛公家と金剛院
寛文元年、当地が公家領となり近衛公の手に移るに及び、当寺社は祈願寺社となり、当地七口の氏神氏寺となりました。
明治の廃藩置県に至るまで近衛公の祈願寺社でありました。
明治時代と金剛院
当山は神仏混合、宮寺同一体の形を成し、鎮護国家、真言加持の道場として栄えましたが、明治元年神仏判然の令が下され、本地薬師如来を安置する金剛院と、垂迹である牛頭天皇を主神とし、当山は薬師如来を本尊として金剛院を称するに至りました。
明治33年、不審火により本堂全焼し、現在は持仏堂を本堂の代わりとしています。
理源大師
宇多天皇
薬師如来と金剛院
金剛院の本尊仏は金銅四寸の薬師如来立像を體内佛とする坐像二尺三寸の薬師如来坐像であり、脇士には日光菩薩、月光菩薩及び十二神将と共に、明治33年の本堂火災に至るまで本堂にまつられていました。
現在は、本堂(旧持仏堂)で御身代仏である薬師如来がまつられています。